ご来館の皆様の中から、ご了解を頂いた方を順次掲載しています。
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月27日(土)眞之、日本海海戦完勝113年目の日

 松山では子規らの生誕 150 年の行事に沸いていますが、松山出身の海軍軍人・秋山眞之(子規の親友)がいることを忘れないでください。

  眞之は、ロシア・バルティック艦隊の来襲を日本海に迎え撃ち、完勝する作戦をたてた人物です。 113 年前の今日、5月27日 ( 土 ) 午前 4 時 45 分「敵艦見ユ」通報、5時15分「連合艦隊出撃」。眞之は、大本営への打電の末尾に「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」を追記。 13 時 55 分 Z 旗掲揚「皇国ノ興廃コノ一戦二アリ、各員一層奮励努力セヨ」の信号発す。

 5月28日(日)午後、勝利が確定。ロ艦隊38隻のうち21隻沈没、他は捕獲又は逃亡。ウラジオ港到達3隻。日本艦隊は水雷艇沈没3隻のみ。

 世界海戦史上空前の完勝で日本の危機が救われ、日ロ講和条約の端緒になると同時に、帝政ロシアの圧政や欧米の植民地に苦しむ諸国に独立の機運を高めました。


△秋山眞之胸像と入口に掲揚された Z 旗


△秋山兄弟生誕地にひるがえる Z 旗(撮影=5月27日、佐伯健理事、文責=宇都宮良治)
 

月21日(日) 子規生誕150年の年に子規の足跡を探訪

 子規は、 1888 年(明治21年)7月1日(日)から9月23日までの3か月間、東京向島・長命寺境内の桜もち屋「山本や」の 2 階「月光楼」に下宿した。この間、勉強に没頭し「七草集」などの作品を書くが、「山本や」の18歳の娘「おろく」との噂話に迷惑したようだ。

 今の「山本や」は長命寺の近くにある。「桜もち」の皮は茶色で分厚く、餡は白い。子規はこれを好み、近所の「こととい団子」とともによく食べた。

 この「山本や」を引き払って9月24日、本郷真砂町の常盤会寄宿舎(現在の常盤学舎)に入り、「子規」と号して文学活動を活発に行った。(取材と写真=重松益見秋山兄弟生誕地研究員。文責=宇都宮良治)


△子規が下宿した「山本や」は、長命寺のすぐ近くにある。墨田区が作った「子規がいた当時の山本や」の説明看板が表にあり、「桜もち」を食べにくる客が多い。


△子規が好んだ「桜もち」は今も同じ形をしている。


△在原業平の和歌にちなむ「こととい団子」。江戸時代から有名。「山本や」の近くにある。団子は大きいので、3つ食べると満腹になる。串は無いのが伝統とか。上京直後の明治16年6月15日、子規は向島にいた叔父・加藤拓川を訪ねたときも、この店に寄っている。
 

5月21日(日) 常盤学舎だより(その1)大掃除

 愛媛出身の東京・学生寮「常盤学舎」では、春の大掃除と寮生会が開かれました。 新入寮生は 5 人。東京や大学生活にも慣れてきて、元気に青春を謳歌しています。


△先輩と一緒に玄関の水洗い


△ミニキッチンの掃除


△「ご苦労さん」とかつ丼を舎監が提供
 

5月21日(日)  常盤学舎だより(その2)寮生会

 寮生全員が集まる月例寮生会が大掃除のあと開催され、明治20年に常盤学舎が創設されて以来の伝統行事である「研究発表会」が行われました。正岡子規が居た頃は「演説」が主流でしたが、今はビデオを使って発表しています。

 研修発表は、寮生がそれぞれ何を学んでいるかを知ると同時に、お互いの情報発信能力を高める良い機会です。今日の両君の発表は、寮生の興味深いテーマであり質疑応答で盛り上がり、貴重な機会となりました。


△「ランサムウエアとは」を発表する有延颯(ありのぶ・はやて)君。「ランサムウエア」はパソコンに侵入する身代金要求型の不正プログラムで、その対策が世界的な関心事になっています。


△「産業能力開発総合大学とは」を語る林航稀(はやし・こうき)君。同大学建築科に学び、丹下健三が設計した東京都庁の新築当時の秘話も語りました。
 

5月20日(土) 「お城めぐり」で約600人(その1)

  5月晴れで暑さを感じる今日、「お城下の著名な施設をめぐるウオーク大会」が松山市、南海放送などの主催で開催され、 秋山兄弟生誕地にも10時近くから約600人が続々と来館されました。

  家族連れが多く、生誕地内のクイズ板の答えを指定用紙に書き込んだ後、銅像や生家を見て次の訪問地に歩いていかれました。 (写真=宇都宮良治)


△「お城めぐり」のパンフレット


△秋山兄弟生誕地のクイズ版。お答えはすぐですよね。ヒサタカは兄弟の父の名前


△第1班約200人が到着


  △暑いので、生誕地は木陰が人気
 

月20日(土) 「お城下めぐり」(その2)

 好天に恵まれたとはいえ気温が上がる中、皆さん元気に「お城下めぐり」のウオーキングを楽しまれました。


△南海放送ラジオの取材を受ける佐伯健理事


△クイズの回答書を見せてもらいました


△今日のクイズの正解は秋山眞之。海軍兵学校の 4 年間を首席でとおした眞之にあやかろうと、 生誕地内の眞之像を触る人が多く、とくに胸像の左手は塗装が剥げてピカピカ。 「松山のパワースポット」として噂が広がっています。
       「お城下めぐり」に参加した坊やも、お母さんにだっこされて眞之の手にタッチしました。
 

月3日(水) 生誕150年に子規の墓に詣でる

 子規の墓を詣でた。墓は、東京・ JR 山手線「田端駅」から歩いて10分「大龍寺」にある。

 子規は「死んでも戒名はいらん。石ころでも置いてくれ。どうしてもというなら墓誌銘はこの文だけだ。」という趣旨の手紙を明治31年7月13日、友人の河東詮(せん=碧梧桐の兄)に書いた。その墓誌銘が墓の横に建っている。

 子規はこの年、松山で柳原極堂が作った俳誌「ホトトギス」が資金難で廃刊になるのを恐れ、病身ながら決死の思いで東京に移し、経営を高浜虚子に託した。夏目漱石は、熊本五高の教師で妻・鏡子と熊本市内に居た。やがて虚子の「ホトギス」に「吾輩は猫である」を書き小説家になる。子規の親友・秋山眞之は海軍大尉で米国留学中だが、キューバのサンチャゴ湾で米国海軍がスペイン艦隊を封鎖して撃滅した詳細な報告書を海軍省に送り注目された。

 明治31年は、子規、眞之、漱石、極堂、虚子にとって、それぞれの人生の大きな節目の年であった。(取材と写真=重松益見・秋山兄弟生誕地研究員)(文責=宇都宮良治)


△大龍寺の本堂。本堂の左横から子規の墓へ通じる。


△子規の墓。右に母・八重の墓。左は正岡家の墓で妹・律も眠る。


△子規の墓誌銘がはめこまれた石碑。昭和 9 年に建立されたが、平成 19 年に建て替えられた。


△子規が書いた墓誌銘の全文
 
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