好古

兄・好古は、いわゆる古典的な武士の風貌があり、戦場で一歩も引かぬ大号令をだして日本軍を救った反面、部下や家族を思いやる言葉の記録がある。常にゆったりと大局を見るとともに、戦地から寺内大将(大本営)に宛てた機関砲を至急送れという戦闘報告書に「小官、さながら新橋の貧乏芸者のようにやりくりしており候」とユーモアも忘れない。しかし後年、常盤舎の監督のときや、北豫中学校の校長時代になると、子弟に対して教育に関する言葉を多く残している。とくに晩年近くに書をよくし、「俺も書を頼まれるようになったか」と苦笑いしながら、松山に額や石碑を残している。好きな酒でも飲みながら書いたのだろうか、いずれも書体は豪放磊落で実に伸びやかである。そのなかで、彼の性格や信条を簡潔に表していると思われるのが、松山東高校資料館にある、『公心如日月』の扁額だ。読んだ響き、見た感じ、心が洗われる逸品であり、好古の生きざまを一言で表していると思う。
  

眞之

 これに対して弟・眞之は、書は少なくむしろ避けてきている。性格も言動も兄とは対照的 であった。しかし、手紙や文章は多く残されている。
 有名な電文『本日天気晴朗ナレドモ 波高シ』だけでなく、彼は戦勝気分に沸き返る世  間に対して警告したり、講義や講演の中で自分の考えを述べた記録が多い。その中に は現代の日本に通じることもあり、広く解釈すれば、人としての心得とも言える内容もあ るので、その部分を年代順に転載した。

 その一 「天剣漫録」より(眞之が米国留学中書籍の余白に朱でメモ書きしたもの= 番号は後日の整理番号=明治三十二年頃)

     1    細心焦慮ハ計画ノ要能ニシテ虚心平気ハ実施ノ原力ナリ
     4    金ノ経済ヲ知ルハ多シ時ノ経済ヲ知ル人ハ稀ナリ
    11    事ノ成敗ハ天ニ在リトイエドモ人事ヲ尽サズシテ天、天ト言ウコトナカレ
    16    自啓自発セザル者ハ教ヘタリトモ実施スルコトハ能ハズ
    23    世界ノ地図ヲ眺メテ日本ノ小ナルヲ知レ
    29    咽モト過ギレバ熱サヲ忘ルルハ凡俗ノ劣情ナリ

 そのニ 日本海々戦の参謀としての心境を戦後に聞かれた中で
 「私は作戦の中枢に身を置いていましたが、常に心は高く天上にあって、鉄火のごとき  興奮状態にはありませんでした。明鏡、私情に曇っていないが故に、八目の岡目は満  月の光を生ずる心境でありました。(意訳)」


その三「日本海々戦記念日の講演」で(記録文のまま=明治四十三年)

 「日本海々戦では、誰が多く働いたとか、誰が非常の手柄を立てたと認むべき点もなく、 皆分相応に働いただけであります。言い換えますれば、古兵家のいわゆる『智名もなく  勇功もなき善戦』であって、全体の力で自然に勝ってしまったのであります。(中略)
 同心協力、協同一致がいかに大切かということであります。」


その四 「聯合艦隊解散式における訓辞」の(結語部分=
明治三十八年十二月二十一日連 合艦隊解散式における東郷平八郎大将が
読んだその訓辞『聯合艦隊解散式における訓辞』は眞之が起草したと言われている。)

  「神明はただ平素の鍛錬につとめ戦わずして既に勝てる者に勝利の栄冠を授くると
同時に一勝に満足して治平に安んずる者より直ちに之を奪う。
古人曰く勝って兜の緒を締めよ、と」
   註= 東郷長官のこの訓示は、時をおかず各国に翻訳された。なかでもアメリカ合  衆国セオドア・ルーズベルトは非常に感動し、直ちに陸海軍長官に書翰を送り、「東郷  の訓示」を引用し、『いかに平和な国家といえども、時として重大な危機に直面すること が ある』と檄を飛ばし、全軍に平時における兵器の開発と心身の訓練を強化するよう 教示した。


その五最晩年の床で(聞き取り=大正七年(一九一八年)二月四日、小田原の
知人・山下亀三郎(愛媛県出身)の別邸にて卒 満四十九歳十一月)
 
 「今日の状態のままで推移したならば、わが国の前途は実に深慮すべき状態に陥るで あろう。総べての点においていき行き詰まりを生じ、恐るべき国難に遭遇しなければな  らないだろう。俺はもう死ぬるが、俺に代わって誰が今後の日本を救うのか」

 出所=「提督秋山眞之」昭和九年・秋山眞之会刊行・岩波書店
      「連合艦隊解散の辞」平成七年五月再版・東郷神社東郷会
      「アメリカにおける秋山眞之」昭和四十四年・島田謹二著・朝日新聞社