幼少の頃
- 「お父さん、赤ん坊をお寺へやっちゃ厭ぞな。おっつけうちが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるがな」10歳頃。慶応4年(1868年)3月20日眞之誕生後に両親が「眞之をどこぞお寺にでも遣らねばなるまい」と話すのを聞いて。
- "いつも鼻汁をたらしてよく泣いた坊さんでございました"(好古の幼少時代、お守りをしたお熊ばあさんの追憶)
人生観
- 「偉くなろうと思えば邪念を去れ、邪念があれば邪慾が出る。邪慾があっては大局が見えない。邪念を去るということは、偉くなる要訣だ」(松山の後輩白川大将に)
- 「何でも良いから働け。仕事は見つけさえすれば何でもある。」「人生は一生働くものだ。死ぬまで働け。」(後輩の島田少将に)
部下との交わり
- 「清岡、お前ともう一度戦争に行きたいな」
「あまり強い酒さえ召し上がらなければ、是非お伴したいものです」
- 「この次は酒を飲まぬよ」
「その言葉だけは信用できません」
「アハハーー」(日露戦争後、好古がかつての副官、清岡真彦と飲んだとき)
- 大海はみんな水だよ手じゃ防がれぬ うっちゃっておきなよひとの口
だって今更どうなるものか 隠し立てすりゃなお知れる
(戦地で外国観戦武官に対して)
世界の情勢分析
- 「今でこそドイツは勝っているようだが、ドイツ軍のやっている跡をみると、甚だ驕慢であり、自惚れが強すぎる。それのみならず作戦方面はよいが、外交が甚だまずい。きっと今に孤立に陥り不運な立場にたつだろう」(第一次世界大戦初期のドイツ軍快進撃に沸く陸軍部内に冷水を浴びせた)
北豫中学校校長
- 「俺は中学校の事は何も知らんが、外に人がいなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少し地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺で役に立てばなんでも奉公するよ」大正13年4月北豫中学校校長に就任する前年、友人・井上要氏の就任要請への答え(「北豫中学松山高商業楽屋ばなし」。以後6年間、歩行町の生家から1日も休まず精勤した)
- 「少年時代からいい習慣をつくらなくちゃいかんよ。机の上の品物はちゃんと整頓して置くものじゃ」「室内の不整頓は、客を遇する道ではないからね」(同校長室で給仕に)
家族に
- 「人間は貧乏がええよ、艱難汝を玉にすと云うてね、人間は苦労せんと出来上がらんのじゃ。
"うき事のなおこの上に積もれかし 心のたけをためしてやみむ"
分かるかい。こういうように人間は苦しみと戦わんと偉い人にはなれんよ。
苦を楽しみとする心がけが大切じゃ」
「芝居では美しい顔をしているのが善人で、悪人は悪人らしく作っているからよく分かるが、世の中はそうでないから困ることがあるよ」
(次女・土居建子「父の俤」)
- 「別に何も無いから話を始めましょうね。」
お祖母さんの心意気
戦などやめて平和に暮らしたい 戦は平和のためにせよ
お母さんの心配
さよふけてもはや 大酒はお身の毒 酒を慎み身を大切に
世を捨てて日露戦争どこへやら
(日露戦争の終期、戦陣より留守家族に鉛筆で走り書きで送った一節 このあと、子供宛に面白い戯言をたくさん書いている)
人物評
内山大将の好古評 「秋山は、これは重要なことであると思えば、人一倍努力す
る男であったが,大局から見て、之はつまらぬことであると
考えると、これまた人一倍放っておく人であった」
森岡大将同じく 「秋山将軍は、騎兵の練成と教育については、常に大局か
ら之をみておられた。区々たる形の上のことばかりしか気付
かぬ指導者であったならば、貧弱不振であった騎兵を、到底
今日のような騎兵にすることはできなかった」
以上
出典:秋山好古大将伝記刊行会(代表者・桜井眞清) 昭和11年11月1日発行
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