好古は1859年1月7日に、眞之は1868年3月20日に、ここ旧松山藩下級武士の町(現在の歩行かちまち)に生まれました。そして、兄は16歳となった明治8年(1875)、初め教員になろうと大阪へ、弟はその8年後明治16年(1883)、初め文学の修行に東京へ、この家から旅立ちました。それぞれ陸軍、海軍に身を転じ、その使命を果たしえたのち、兄は65歳で故郷に帰り、旧制北豫中学校校長としてこの家から6年間、昭和5年(1930)に亡くなる半年前まで通勤しました。

生家は、好古没後7年の1937年(昭和12)、それを守ろうとした松山の有志と東京の秋山家の厚意により、その隣地と共に松山同郷会の本部地となりました。
兄弟の生家は、松山空襲で焼失しましたが、戦後60年の平成17年(2005)1月に復元公開されました。兄弟に想いを寄せる松山や全国の方々からの募金により、往時の下級武士の間取りや資料、証言を基に再建されたものです。
兄弟が育った気配の中に、兄弟の直筆の書や、写真資料などが展示されています。

昭和12年建立 秋山両将遺邸之碑

 

秋山両将遺邸碑文
(ほぼ原文どおりですが、一部、読みやすいよう現在の文字等に簡略化しています)
陸軍大将 秋山好古君 海軍中将 秋山眞之君 兄弟生誕ノ地タル 松山城東ナカ歩行町カチマチノ邸宅ハ 天保年間 父久敬翁ノ構築ニ係リ 環堵蕭然カンド ショウゼントシテ 素朴ヲ極ム
大将ノ晩年帰リテ北予中学校長ノ任ニクヤ 旧屋中ニ起臥キガワズカニ墻壁ヲ修治セシノミ
今ヤ両将既ニカンツ 遺邸ノヨウヤク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ 同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ
久松伯爵及ビ山下亀三郎 新田長次郎氏等 資ヲ投シテ之ヲ助成シ 旧邸ヲアガナヒ修補ヲ施シ 且ツ両将ノ遺品ヲ蒐集シュウシュウシテ永ク其徳風ヲツタヘントス
シカシテ其保存管理ハアゲテ松山同郷会ニ託シタリ 同会ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ 大将モ亦カツテ舎長タリシヲ以テナリ 是ニオイテ同会ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ会館ヲ移シ 以テ旧邸管理ノ任ニ便ベンスルコトニセリ レ両将ノ人格勲業ハ赫々カッカクトシテ人ノ耳目ニアリ 復タ縷説ルセツヲ要セザルナリ
昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上 要 撰 並に書