この日の朝は、勝山中学 1 年の104人、午後には松山北高校2年の120人が、元気に訪れました。両校とも、校舎の南に松山城を望む学校で、しかも13年前、ここ秋山兄弟生誕地が整備公開された年から毎秋、「ふるさと勝山めぐり」或いは「北高城山回廊探索」の一環として歩いて来られています。その当初の中高生はもう25歳から30歳、今はどんな「旅」をめぐっているでしょうか。
その1 勝山中学校は班別に
写真1 「真之さんのようにとことん努力する人に天は味方してくれる」
勝山中学の「ふるさと勝山めぐり」は、道後や山頭火草庵も含む10ヵ所の内、各班で選んだ6か所ほどを自主的に訪ねて回るコースでした。当生誕地には9時半から11時過ぎまでの間に、5 、6人ずつ19 の班が訪れました。その間 1 年学年団の当地担当で下見にも来られた野口先生(写真1左)は、次々にくる班を確認、生徒たちにヒントを与えながら見守っていました。
写真2 案内板を読み取る生徒たち
写真3 当時の北予中 1 年生も 3 人で校長先生の家に来て、この部屋に上がった。…
「みなさんよう来てくれました」とお菓子を出されても、手を付けられずにかしこまっていましたら、好古校長が「僕も一ついただくから、一緒に食べよう」と…。
10月18日(木) その2 松山北高はクラス別に
写真4 引率のクラス担任と、真之の読書法に見入る 17 歳
写真5 午後の間、北高から真っ先に、或いは萬翠荘や坂の上の雲ミュージアムを回ってから来た 3 クラスが、北高先輩の生誕地研究員、大野さんや森松さん、荒井さんから、それぞれ男女半分ずつ、兄弟の銅像が向き合う前庭と生家北庭を入れ替わりながら、案内を受けました。後輩たちは終始親しみ深く、耳を傾けていました。
そして、かつて好古校長が通勤したのと同じ道を、北高へ帰っていきました。
写真6 北高理系クラス一同
その1の勝山中は、校区内のロシア兵墓地 – 日露戦の捕虜松山収容所での傷病死者 98 基 – の清掃奉仕を、ずっと以前から続けている学校で、その事を話してくれる生徒もありました。 いっぽうその2の北高生は、その日露戦後 20 年を経た晩年の好古が、戦死した大勢の部下の事を思いながら校長として赴任した旧制北予中学校の後身として、その伝統を学ぼうとしていました。