秋山兄弟生誕地

1月27日(水)  東雲高校生5限目日本史

歩いて3分、松山東雲高校から秋山兄弟生誕地を訪ねて来たのは、 3 年生文系の選択科目で日本史を選んだ 5 人と、担当の野上完治先生でした。

  先生によると、日頃から歴史や郷土に優れて関心を持つ生徒達である由、まさにその通りでした。産湯の井戸の水、淳五郎(眞之)の東雲地区でのエピソード、好古校長先生の出勤前を描いた鉛筆画などの案内に、すずやかに耳を傾けて、打てば響くように小気味よく応えてくれました。

授業では、すでに日本近現代史を終え、進学の受験を控えた時期でしたが、郷土の偉人として習った兄弟がここで育ったということが、具体的に実感できたそうです。

  5 限目の午後 1 時 40 分の来訪からあっという間に 50 分たち、 6 限目前の休憩時間の間には、帰校しなければなりません。秋山校長が通勤していたころにできた門を通るというので、そこまで、案内人も一緒に参らせていただきました。

左 東雲中学・高等学校正門への門柱          右 好古校長の通った道

好古校長は、出勤の時は自宅を出て 100 歩ほどで、↑上の写真の場所、現東雲高校(旧松山女学校)の正門前に出ます。昭和 3 年にはその門が出来あがっていくのを見ながら、右側の道を私立北予中学へと歩いて通いました。( 旧北予中まではお年寄りの足で 30 分かかったでしょうか、昭和 5 年に亡くなる半年前まで 6 年間、「毘沙門坂」=現大街道ロープウェイ街と呼ばれるこの道を、歩きました)

「昭和 3 年にこの正門(↑写真上)を建設した校長は誰でしょう?」とスクールアドバイザーでもある先生は生徒たちに投げかけていました。ジレット先生?と答えた生徒もありましたが、正解はホイテ校長先生。

――明治半ばに女学校として四国で最初にできた私立松山女学校(現東雲学園)に、ミッションの第 3 代校長として 1920 年代に着任した米国女性ホイテ校長先生は、移転してきた現校地(松山城東郭跡)の環境に配慮し、「全校舎を城廓型の建築に」と、この正門や校舎を建築したそうです。 
しかも、昭和 20 年 7 月の松山空襲で、城山のまわり1万軒と共に焼失した時も、この正門は遺りました。
( 100 歩離れた歩行町でも、秋山兄弟の生家は燃えても「秋山両将遺邸の碑」だけは遺り、東雲の正門と同じように先人の心を伝えてくれています。)

6 限目の授業に帰っていく先生と生徒たち