令和 3 年、新年を迎えた 7 日、秋山好古が幕末の安政 6 年に生まれて 162 年の年を迎えました。
床の間の好古さんの書は、「人事有憂楽 山光無古今」。…「人の世には憂いや楽しみが有るが、山光は古今を通じて変わらない」 と。
花はこの日のために草月流の河野美芳さん、廣木鈴芳さんが道場の献花(↓写真3)とともに生けて下さいました。右の棚には、全国から御来訪の方々の芳名帳を捧げています。
年末年始の来訪者の感想ノート(左)と芳名帳(右)
昨年は元旦から 12 月 30 日まで、全国や隣国から 5 千人(一昨年は 1 万 2 千人)の方が来訪されました。隣国からの最後の来客は、 1 月 29 日、北京からの 3 人家族 – 御主人が働くようになった日本に、初めて招いた奥様とそのお母様 – でした。その日は、パンデミック宣言の前日でした。武漢でなく互いに警戒が緩い時で後日は心配しましたが、共通の関心、杜甫の話の花が咲き、無事に絆を結べた良い思い出です。
例年、誕生日近くの日曜日に生誕祭が開かれ、来賓の方々や常盤同郷会関係者、ご近所の方々と共に御餅つきや式典、柔道・合気道の稽古始めを行うのですが、今年はコロナ禍第 3 波の中で延期し、 3 月 20 日の弟真之さん誕生日に、兄弟一緒の生誕祭を企画することに致しております。
そこで、 1 月 7 日当日は、生誕地の常盤同郷会道場に遺影を掲げ↑、献花、献杯し、内内で心を込めてお祝いいたしました。
そして、居間に新しい展示をしました↓。この絵は、大正 13 年( 1924 )好古さんが帰松してから 1 か月を過ぎた3月(眞之の誕生月)に、故眞之の長男 秋山 大 ( ひろし ) が、父の七回忌法要の後に東京から訪れて、一晩お話した…その朝でしょうか、伯父さんの姿を鉛筆で描いたものです。
絵の題は 『 北豫中學校長先生の御出勤前 』 ( 三月二十四日 午前八時…とその背仲の右上に )
そして火鉢の左には、「大正十三年…松山宅に於て 大(ひろし)写す」と、 19 歳の甥は書きました。
伯父さんが大阪に船出したのはその 50 年前の 1 月でした。日露戦争が終わってからも 20 年経っていました。
この HP を開いてくださった全国の方や、昨年までおいで下さった方、故郷の御近所の方々と共に、生誕を寿ぐことができればと存じます。
誕生月の間は、道場の入り口を開放して、通り係りの御近所の方々にも、ご案内しました。
ろう梅、椿、金みつまた、オリエンタルユリ、バラ、水仙などの花たちも、日を重ねて咲いていき、凛とした空気のなかでおどろくほど元気に祝いに参加してくれました。
8 日の朝には、神奈川から中村さん親子が来訪しました。翌日に松山の私立中学校受検を控えている由。
戦後創立された同校の初代田中忠夫校長は、私立北予中学講師時代に接した秋山校長の人柄への敬意を、よく生徒たちに語ったそうです。
山光の庭には、好古さんが好んだ実のなる木、今は夏橙(なつだいだい、夏みかん)が生っています。 その由来のように冬を乗りこえて継ぎゆく、代々(だいだい)のさかえを、共に御祈りできればと存じます。
松山市歩行町 2 丁目秋山兄弟生誕地 (公財)常盤同郷会 役員一同 拝