秋山兄弟生誕地

1月6日(日) 秋山好古生誕160年祭  その2  日中露座談会          ~好古は松山の青年に何を伝えたかったのか~

 第3部では標記を副題とする日中露座談会「人間秋山―受け継がれる想い」で、好古さんの人柄に近づければと、様々な立場から150人が道場に集いました。

パネラーは、(シン) 東風 愛媛大学教授(中国思想史)、シャクマトフ・ディミトリ 愛媛大大学院教授(数理科学)、秋山好史氏(好古孫)と進行役の当常盤同郷会山崎理事長の4人。

  秋山好史氏は、当初パネラーを引き受けて下さっていた新田長彦(たけひこ)氏(好古の親友新田長次郎の曽孫・ニッタ㈱名誉顧問)が直前に体調を悪くされた為、急遽友のために代わって座談の席に着いて下さいました。

  それは、その祖父好古が新田長次郎の帯皮工場を見学して意気投合し―「新田君、君は実業家だから大いに金を儲けて国益を図り給え、僕は軍人だから人をつくって国家に尽くそう。」―と生涯の友となって以来、子々孫々にわたって偶然のように交わってきた友誼がまた結ばれたようで、感慨深く座談会を始めさせていただきました。  

座談会の中では、生家に展示中の扁額『一以貫之』(一 以て之を貫く)を、最晩年の好古は後身にどんな意味を込めて書いただろうと話題になり、(シン) 東風氏はこう言われました。

  ――その孔子の言は論語の中に2回。1か所目では、それを聞いた弟子によれば、『一』とは「忠恕」。「忠」は相手に良いこと(処)があったらそれを十分に理解して成就させること。「恕」は、相手が困る事悪いことがあったら、それを助けること。つまりどちらの場合も相手の立場で相手の為に考えるということだと。そして(2か所目で)、孔子が自分の一生で大切にしてきたことは「物知り」であることではなく、「まとめて一つを貫いたこと」である、と。

  (参加した方の感想では、この辺の問がいちばん印象深かったという方が少なくなく、この春東京進学・常盤学舎入寮が決まっている高校3年亀山君は、あとからネットで孔子の言葉として「一以貫之」を調べ、あらためて考えているそうです)

  「秋山氏の場合『一』とは何でしょうね!?」。とシン東風さん。―自分の知っている限りでいうなら、それは彼が口頭で言ったことや、紙に書いたものではなくて、自分の実践した事の中にあるのではないか。例えば、亡くなった部下への同情心からの現役の時や退役後の質実な行動、単身赴任で故郷に帰って中学の校長を務めたことなど、『一』は、一つだけでなく色々な形に現れるのではないかと。

  その事は、孫の秋山哲兒氏(長男信好氏子息)が、昨年「文芸春秋」正月号の『明治150年 美しき日本人50人』の中で、祖父好古を紹介した際、「自分や家族のためではなく、最後まで、『他者』を思い遣る人だった」と結ばれている人柄を想い出させました。  

邢 ( シン ) 東風氏

シャクマトフ氏

秋山好史氏

 その『一』はまた、好古の「責任感」にも通じ、「人のせいにしない、頼らない、逃げない」、それは、好古さんが明治の時、常盤会世話人として寄宿舎や松山同郷会の青年たちに基本だと語った「独立心」から来るものと考えられます。

秋山好史さんは、「普通に生きてきた好古の22人の孫もだんだん減ってきて、その5人のうちの1人が私で、祖父がそんなに偉い人とは…わが身を反省するばかり」と笑わせながら終始控えめに語られましたが、そんな中、「自労自活」(先の式典での挨拶で、「親を当てにするな、自分の事はなにもかも自分でやれ」、ということだけは、非常に厳しく言われてきました」と)、これが、秋山家の家訓のようであったと触れられました。

  これぞ、講和間近い満州の戦場から好古さんが家族にあてた手紙の一節と同じく、その後生まれた末子の次郎(じろう→好史氏の父)氏にも語ったであろう「自労(じろう)自活は天の道…」であり、また、死線を共にした騎兵たちに贈った別れの歌の一節であり、その20年ほどのち、北予中学生800人にも訥々と話した、御自身の実践そのものでした。

モスクワ大学で数理科学を研究し、縁あって愛媛の青年を教えて25年のシャクマトフさんは、ロシア兵捕虜と当時の松山のことや、今「誓いのコイン」上演を機に愛媛との友好交流を重ねているオレンブルク州が、秋山好古の戦ったコサック騎兵の地でもあることなどを、ロシア人の立場から話して下さいました。その聴衆に直結する気さくな語りかけは、好古が日露戦前にもシベリアで旧知のロシア騎兵と酒を飲みながら歓談し「ロシア人の気分のよさは世界一かもしれん」と言ったりしたことを彷彿とさせるようで、天の好古さんの歓びが目に浮かぶようでした。

  国と国で対立することはあっても、双方の人間同士では、何人とでも分け隔てなく親しんで理解を深めようとし、相手にも好かれた大人の風を、当時の松山の青年が好古さんに直接接して学んだであろうことを、想いだすことができました。

  聴衆のひとり 歩行町在住の中学2年生露口君は、好古さんのまごころからの思いやりが彼を強くして、今も語り継がれているのだと思います」と後日感想文を寄せてくれました。                         (文責/進行 山崎)  

最後に御報告いたします。昨年末12月30日に、秋山兄弟の魂を永く伝えるため当生誕地の整備公開を先頭に立って進めた前理事長平松昇が享年84歳で旅立ちました。その事をこの日好古生誕祭式典に先立って皆様にお伝えし、黙祷を捧げました。…昭和12年、井上要さんたち有志がここ遺邸を修理公開、昭和20年戦火焼失後、平成17年に成った生家復元公開は、故理事長とともに尽力された県内外の有志の方々と、それに応えて募金を頂いた全国1万人の志で成った事を偲び、次の代へと守り繋いで参りたいと思います。

故、平松昇 常盤同郷会前理事長( 1935-2018.12.30 ) 
2017 年(平成 29 ) 4 月 12 日 秋山兄弟生誕地での日仏親善柔道大会の日に