秋山兄弟生誕地

3月6(水)7日(木) 「ふるさと松山学」に3中学校

好古さんも好んで書いた「天地無私」(天地私無し 春また帰る)の季節、2月26日の五明小学校を皮切り に、東雲・双葉・北久米小、余土・北・津田中と続いて 3月8日の雄新中まで、松山市内8つの小中学生が、校外学習兼遠足の一環で、秋山兄弟生誕地を訪ねてきました。

その多くの生徒達の班長が手に持っていたのは、「ふるさと松山 百話」―市内小中学校関係者60余人が 語り継ぎたい郷土の偉人100人について分担調査・執筆し、7年間で7巻発行したものを昨年 1 冊に要約して上梓された本―でした。

 当常盤同郷会―郷土の青少年育英団体として明治21年真之さんたちが創った松山同郷会を継ぐ―としては、その出版のねらいに大いに共感。逐次その本に学びながら生徒たちをお迎えしました。ご案内した小中学校のうち余土中、津田中、北中の生徒による「活用」をお伝えいたします。

その1: 小雨 交じりの3月6日(水)、 余土中学校2年生20の班、総計 120名ほどが、半日かけて来訪しました。市内の高校2校以上・史跡の内5か所以上を各班の計画で訪問するもので、3年時の京都修学旅行・班別自主研修の練習も兼ねていました。

そこである班に、ここで育った秋山兄弟と同じ頃に生まれた余土村長さんは…と話しかけると、異口同音に「それは森盲天外」と応えてくれました。どんなことをした人かと問うと、ある班の女子はしばらく考えて
「…どうしたら村が良くなるかと…」
と、秋山兄弟も喜びそうな、恐らく一番根源となる姿勢を、ゆっくりくり答えてくれました。そしてある男子の班は、そのために作った「村是」が国の博覧会で一等となった、その条文を、「ふるさと松山学」を開いて、いくつか一緒に聞かせてくれました。

 そしてその班は、次の目的地、盲天外さんの次のような句碑もある道後温泉に向かって秋山兄弟生誕地から歩いていきました。

「伊予と申す 国あたたかに 出湯湧く」

余土中学生が開いてくれた「森盲天外」

津田中生が読んだ「新田長次郎」、次頁「秋山好古」

その2:3月7日(木)  津田中学 は、計51人の2年生が班別にやってきました。同校区出身の新田長次郎は、秋山好古の生涯の親友であり、味生小出身者はその事を習った6年の時に生誕地に来た事を班の中で語ってくれました。(参照→ホームページニュース2017年3月)

 「ふるさと松山百話」を読んでみると、長次郎が 20 歳の時大阪に出て苦難に堪えながら製革技術を習得したことが書かれていました。そしてその製革業で儲けたお金から故郷の味生小校舎のために多額の寄附をし、その落成式には、丁度北予中校長1年目の秋山好古と一緒に参加しました。かつて互いに 40 歳程で出会って意気投合し「…我々二人は競争的にやろうじゃないか」と言ったたことの意味があらためて思い出されました。

津田中学の女子班-真之(トルコ)から子規(常盤舎)にあてた賀状を読む

その3: この日 松山市立北中学 (太山寺町)の2年生、市内ウォークラリーの一環で7つの班(計21人)が、秋山兄弟生誕地を選んでやってきました。

「秋山兄弟肖像(語らいの想像図)」を前に―松山中学2年の真之と同じ 12歳の松山北中2年男子

横江昌人画のこの絵の設定は明治13年夏。兄好古が前年陸軍士官学校を卒業、この年21歳で東京鎮台騎兵小隊長となって帰省した時、9歳年下の弟と話す。今の中学生は兄弟の絵を見ながら 「真之は兄さんに憧れているみたい。」「好古はどこか遠くに向かっているみたい」と感想を述べました。

北中の女子班-校区内の『和氣濱』(和気浜)が好古の書で刻まれている石碑写真を観る

白砂青松の和気浜が、「伊予十二景」の一つに選ばれた折昭和 2 年に、旧和気村青年団が北予中秋山校長に揮毫を依頼しました。