秋山兄弟生誕地

4月22日(日) 好古さんにイチジクをもらった東雲小の後輩来る

昭和初期の事、北予中校長として歩行町のこの家に住んでいた好古さんは、当時すぐ隣町に在った東雲尋常小学校の生垣の道を時折散歩していました。ある夏の日、その小学生が、帰り道にある好古さんの家のイチジクを見て「食べていいですか」と尋ねると「オオ、入れ入れ」というので5,6人でぞろぞろと庭に入って食べてたら、「よう来たよう来た!」と好古さんが頭をなでてくれたそうです。

それから90年後の日曜日、近くの東雲小学校 6 年の友達二人が、昼から誘い合わせて坂の上の雲ミュージアムや萬翠荘を回って、最後に当地へ。二人とも5年の時の遠足で一度来たことがあるそうで、今回はゆっくりと訪ねてくれました。

〇若葉を吹き始めたイチジクの木のそばで:        〇昭和12年建立の遺邸碑前で
       左から東雲小6年伊藤幸哉君と 西川碧海君

 伊藤君は社会が得意、西川君は「社会は苦手なので」来たとのことです。見学で一番印象に残ったのは、空襲―「秋山両将遺邸碑」にも焼夷弾の傷痕が残る―のため、「松山が一度火の海になった」という事でした。

  この日の来客の中には、孫が「坂の上の雲」の地の松山大学に入った御縁にと、山口県から訪ねて来られたその祖母と母もありました。司馬さんの「花神」も話題になりました。また、出張を機に寄られ、帰りがけに「励まされます。」と言葉をのこされた中年男性や、かつて来島ドックで日夜機関部門で働き終え、引退した今「悔いはない」という熟年男性も、展示中の「三笠」の機関模型(新居浜工業高校生製作)等に見入っておられました。